小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(4)  国連を国際社会と混同する文化的原因 
Friday, August 24, 2012, 12:33 AM
23日晴 12時 浅草での空間線量は123ベクレル/立法メートル

■国際社会を知るための鍵、「社会」と「結社」


国連はユニバーサルなものではない、と論じた。その理由は、現実にはまだ非加盟国が存在する(編:1981年当時)という現実的なものだけではなく、本質的にそのようなものになろうとする意図がないということであった。意図がないと判断する根拠の一つとして、敵国条項に象徴される第二次大戦中の「連合国」としての性格を脱していない、と指摘した。
もし日本人が、そのような時代離れした性格を脱したならば、国連が事実上、国際社会そのものになる、少なくとも国際社会に限りなく接近すると考えるならまちがいである。しかもただのまちがいではなく、致命的なまちがいを犯すことになる。この点、実は日本人だけではない。国際社会一般が陥っている誤解に通ずるものである。
説明しよう。
第一次大戦後、「国際連盟」が成立したとき、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセがいち早く指摘した。これは発想上の誤りだというのである。なぜなら、その根底に、「社会」と「結社」との救いがたい混同があると見たからである。
「国際連盟」は正式のフランス語名は「ソシエテ・デ・ナシオン」である。「ソシエテ」というのは、英語で言えば「ソサイアティ」であって「社会」そのものである。
「国際連盟」はたかだか、すでに存在する国際社会という場の中で、一つのクラブを作っただけの話である。つまり「社会(ソサイアティ)」ではなくて「結社(アソシエイション)」である。社会と結社の次元を混同したなら、これはたいへんである。「国際連盟」の英語名は「リーグ・オブ・ネーションズ」でまだました。「ソサイアティ」などという、どえらい語を用いなかっただけ救いがある。ただ、「リーグ」では、政治的便宜的結合しか意味せず、独特の法的性格を表現しない憾(うら)みはある。
いずれにせよ、社会と結社は峻別しなくてはいけない。人間が意図的に造り上げることができるのは、結社のほうであって社会ではない。
国内社会も、地域社会も、そしてうっかり忘れがちであるが、国際社会も同じことである。
第二次大戦後の国連にもまったくおなじことが言える。どんなことがあっても、国連を国際社会そのものであるかのように勘違いしてはいけない。
それでも、現実には、国連をとかく国際社会と混同する向きが少なくない。西洋人もそうだが、日本人にはとくに危険が多い。ただし西洋人と日本人とでは、混同する原因がまったくちがう。面白いことに、正反対と言ってよい。
万事受け身の日本人は、国連を与件であるかのように受け取る。国連を天然自然の賜物と思いこむ、ましてや、その根底にある国際社会などは、自然の果実である。人間と直接関係なく、「そこにある」ものである。ということは、国連も国際社会も、ともに自然なのだ。両方自然と思いこむことによって、混同するのである。
西洋人は逆である。国連はもちろん、人間の作った一つの制度である。国際社会も、同様に人間の作った制度であるはずだ。したがって、両方とも、自然ではなくて、それと対決する文明の範疇(はんちゅう)に入るのだから、同じようなものだ。つまり、両方とも文明の所産と片付けて、混同するのである。

■「憲法上のそれはできない」という弁解は成立しない


およそ文明史的発想の根幹をなすものは、自然と文明の区別である。その区別があいまいであったら、文明史的洞察などできるはずがない。すべて即物的で、環境順応にすばしこく、似非(えせ)実際主義にかぶれた日本人の、致命的欠陥がこれである。自然と文明の区別は、「作為の契機」があるかないかである。
日本人は、簡単に「社会が所与である」と思いこむ。その社会の場として人間が作ったはずの制度も、所与と錯覚を起こす。人間が作ったものなら、人間が変えることができるということに気がつかない。たとえ理屈で知っていても、日常生活のセンスにはのってこない。したがって、この社会にも、それから文明のもたらした種々様々な制度に、あたかも自然であるかのような態度で接することになる。
自転車も馬であるかのように取り扱うし、憲法も神様の作った自然の掟(おきて)であるかのように思いこむ。国連だって「国連中心主義」などと言って、あたかも「所与」のごとく受け取る。それは、台風や地震と同じ事である。国際情勢も単なる与件である。だから、それに上手に順応することが日本の対外行動である。日本は「外圧」がないと、行動を起こさない。自分自身が能動的な役割を果たしうることに気がつかない。これでは高度の戦略も政略ももていないのは当然である。
ひと口で言えば、日本人は自分と直接の交渉相手以外は、すべて自然と同様と考える。ひどい場合は、相手まで自然の一部と勘違いすることがある。戦争がそのよい例である。ある日ある時、敵が攻めてきたら、としか考えない。これでは、自然現象とあまり変わらないではないか。台風に襲われたら、大地震に見舞われたら、どう対処するか。せいぜいそれだけのセンスしかないようだ。
戦争は文明の所産なのだ。制度なのだ。自然現象ではない。文明であるならば、それ相応の構造があり、論理があり、手続きがあるはずだ。したがって、根本的な問題は、わが国に戦争が起ったらどうするか、ではない。わが国をめぐって、どのようにして戦争は起こるか、である。戦争にいたらざるをえない深刻な紛争があるのか、近い将来に想定されるのか、それを回避する手段はあるのか、あるとすればどの程度の効果が期待されるのか、ないとすれば危険点はどこにあるのか、それはいかに備えるべきか・・・このように考えないとおかしいことになる。
よく日本人は外国人に対して、それは憲法上できないんですという。それが大真面目で、もったいぶって言うので、相手は、バカじゃなかろうかと思わざるをえない。憲法はそちらのお家事情であって、こちらには関係がない。具合が悪ければ改正すればよいではないか、と逆襲される。
まともなセンスのある人なら、同じことを、こう言うだろう。じつは、わが国ではすぐに憲法問題となるので、なかなか対処がむずかしいのだ。それを理解していただきたい、国内には尖鋭(せんえい)な対立があるので、うかつに扱うと政権の命運にもかかわりかねない問題なのだ、と。
このように言えば、まさか、こいつは自然と文明の区別もつかぬのか、などとバカにされないだろう。アメリカ人だって、時折り、その通りだが、なにしろ議会がおいそれとうんと言わないのでね、などと同じような弁明をするのだから。
要するに、日本人はとかく自然と文明とを混同するのだが、その結果として、自然の領域が不当に拡大されることが問題なのだ。わが国では、作為の契機の問題をいくら強調しても、強調しすぎることはないだろう。

■逆に西洋人は社会と制度の区別がつかない欠陥がある


日本人と同様に西洋人も誤謬(ごびゅう)を犯した。皮肉なことに日本人の誤謬と逆なのだ。日本人の「自然」偏向に対し、西洋人は「文明」偏向なのである。西洋人は日本人とちがって、自然と文明を峻別するのだが、文明の取り扱いに当たって、少し次元が異なるところで偏向に陥った。
西洋人の犯した誤謬とは何だろうか。それは、文明と言っても、じつは二つに分けて考えなくてはならないことに十分気づかなかったのである。それは「社会」という場と、その場の上に構築される諸「制度」の区別があいまいなことである。むしろ極端に言えば区別をしたがらない、すべてが作為の契機だと、簡単に片付けてしまう傾向があるのだ。
「社会」とはなんだろうか。きわめて具体的な歴史と環境を担った空間である。したがって、人間はまったく自分の意志と能力で、自分の所属する社会を作るのではない。すでに作られた社会に順応しながら生活をする。この意味では社会は自然に酷似するのものだ。
他方、人間の形成する社会は、きわめて長期的巨視的には、集団的努力が積み重なって変化するものである。その限度では、作為の契機がまったく存在しないわけではない。
したがって、図式的に割り切って言えば、社会は自然と文明との中間的なものである。「社会的なもの」をこのように理解しないと、考え方の混乱が起こる。
たとえば、社会契約説というのがある。社会は、まったく白紙の空間に、ここのメンバーが寄り集まって、自由意志で人為的に契約して作り上げたものだというのだ。歴史的に事実か否かは問題ではない。「社会」という理念型の基本は、そうであるに違いないという思想である。この社会契約説でいう契約もルールである以上は、文明を「社会」とその上に構築された「制度」とを区別し、「社会」という場で生まれ出たものだ。このように社会契約説は誤りであり、西洋人らしい誤謬なのである。
すでに述べたように、国際連盟や国連をややもすると、国際社会そのものと混同する傾向がある。これは現在の国際社会の病の根源の一つである。西洋人は国際社会を社会契約説によって作り直したと錯覚を起こしている。日本人は、自然であるかのように対応することで、混同している。なんとも皮肉な光景である。
(つづく)

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小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(3) 国連の幻想と国境の思想 
Wednesday, August 22, 2012, 03:42 PM
晴 10時 浅草での空間線量は131ベクレル/立法メートル

とんでもなく暑い一日です。さすがに空調の効いた場所に避難しております。昨日に続き、戦争論のほとんど丸写しに近い抜粋です。

■ナンセンスな国連中心外交


戦争は国際紛争解決のための制度である。だから戦争をなくすためには、戦争以上に合理的な制度を確立しなくてはならない。そうせずに、戦争だけをやめると、戦争以上に悲惨な世の中になる。
こう言うと、多くの日本人は、次のように反論する。戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の制度があるじゃないか。国連がそれだ。少なくとも国連はそのために作られたものであるはずだ。現在そのように機能していないなら、これを強化し育成すればよいではないか。
このような考え方が、広くわが国の世論となっている。しかし、誠に残念ながら不幸な誤解である。すべては国連の本質の誤認から生じている。
日本人は、国際政治や戦争をたいへんに誤解していると、論じてきた。その誤解の中でも最大の誤解は、国連に関する誤解だ。国連の本質について、日本人はまったく無知であるとさえ断言してよいだろう。
日本政府は国連中心外交を唱えてきたが、まるで錦の御旗だ。これには野党も反対できない。それどころか大賛成だとしか言いようがない。日本国民の大多数は、国連とは何か崇高なありがたいものだと思いこんでいる。なかには、世界政府みたいなものだとさえ錯覚している者もあるくらいだ。少なくとも、人類進歩のシンボルぐらいには思っている者が、過半数だろう。
その証拠に、日本は独立後、一日も早く国連に加盟するために全力を挙げて努力し続けてきたし、ついにアメリカがソ連を説得することに成功したときには、国を挙げて大喜びし、これで日本も、国際社会でやっと一人前になれたんだと言うことになった。
わが国が国連に加入するなどということが、国連本来の性格から言えば、どんなにグロテスクで、奇妙なことであるかに気づかない。国連中心外交さえ展開していれば、日本は安全で平和だと信じて疑わない。
まったく、とんでもないことだ。誤解もここまでくると正気の沙汰だとは思えない。国民大衆の誤解もさることながら、学者もジャーナリストも、国民に国連の本質について説明しなかったのはいったいどういうことだろう。無責任もここまで徹底すると、犯罪だとしか言いようがない。

■国連とは、そもそも何であろうか


国連の本質を知るには4つのポイントがある。
々駭憲章では戦争を拒否していない
国連は建前としてユニバーサルな機関ではない
9駭△和萋鷦‖臉鏝紊慮従維持の執行機関である
す駭△漏堂談噌颪一般的な政治的了解を相互に模索する場である
それぞれのポイントは、これから詳しく説明する。国連は、既存の国際紛争解決の諸手段を、多少整理し組織化しただけのことであって、なんら質的に新しいメカニズムをもたらしたものではない。ましてや、制度として戦争を超克するものではない。もっと初歩的な問題から始めよう。
ひところ「国連中心主義」という標語があった。わが国の外交の三本柱のひとつとして(編:あとの二つは「日米同盟」「アジア重視」)公式に打ち出されたこともあった。
しかし、よく考えてみるとまことに奇妙な発想である。これは日本人の国連に対する基本的誤解を象徴している言葉と言っても過言ではない。

■国連とは主権国家の国際政治上の場のひとつでしかない


国連は国際政治上の一つの場にすぎず、なんらかの実態があるわけではない。国連の加盟国は主権国家である。各加盟国は、自分の主権を制限して国連に委譲しようなどという気持ちは、さらさらない。国連憲章上、古典的な意味で多少の制約は受諾しているが、主権を損なうようなことでは絶対にない。むしろ、事ごとに、主権の絶対を強調してはばからない。つまり国連の主人は、各加盟国であって、国連そのものではないのだ。
国連を主権国家の上を行く世界連邦政府のように勘違いしているのならば錯覚もはなはだしい。国連を将来成立することのあるべき世界連邦の萌芽であるかのように取り扱っているが、これは途方もない誤解である。将来、たとえ世界連邦が生まれ出るとしても、それは国連の筋から出ることはありえない。
国連中心主義という意味が、何でも国連にきめてもらおう、国連の決定は尊重し遵守(じゅんしゅ)しよう、ということなら、妙なことになってしまう。国連で決めるのは誰か。それは各加盟国の合議である。国連という抽象的なものではない。もっと割り切って言えば、国連で決めるのは、加盟国自身、つまり日本なのだと気付かなければならない。
万事受け身の日本人は、この世に自分がいることさえ忘れてしまうらしい。自分の行動規範まで他人がきめてくるとものと思うのだろうか。
国連を外交の手段の主要な道具として使う、という趣旨ならば、結構だ。少なくともつじつまのある発想である。ただし、それがけんめいであるかどうかは別問題だ。国連中心主義は、そもそも、つじつまの合わぬ発想なのである。

■「自衛」の名目がつけば実は何でもOKな国連憲章


国連憲章は、4種類の戦争を認めている。それは「個別的自衛権」および「集団的自衛権」の行使の二つであり、それに第二次大戦の敗戦国に対して、国連の現加盟国には、例外的に「敵国条項」の発動が許される。さらに集団としての国連自身には「強制行動」が認められている。いずれも、当然に武力行使が想定されるので、まさに戦争そのものである。
国連憲章上、国連加盟国は、「武力攻撃が発生した場合には」個別または集団的自衛権を行使するのはかまわないことになっている。ただし安全保障理事会がなんらかの措置をとるまで、という原則上の条件が付いている。(第51条)
これにはいくつかの問題がある。第一に自衛権というものは、一般国際法上、昔から確立されている固有の権利であるが、はたしてこれに制限を加えたものであるのか。具体的には自衛権は武力攻撃を受けたときだけなのか、あからさまに武力攻撃ではないが、陰に陽にあらゆる手段を用いて圧迫を加え、武力行使の威嚇(いかく)まで受けたときどうなるのか。そこまで挑発されたのならやむをえぬ、として武力で対抗してよいのか。
この問題はかつて世界の国際法学者をえらく悩ませたものだった。ある者は、国連憲章の精神からして当然制限されるものと主張した。そうでなければ、この条項はあまり意味がなくなるではないかという理由である。
また、ある者は、「武力攻撃が発生した場合には」の表現は一つの例示であって、古典的な自衛権は制限されていないと主張した。自衛権などという固有の権利は、個人の基本的人権のようなもので、簡単に取り上げられるはずないではないかという理由である。
それでは、各主要国政府の公式の解釈はどうなのか。どの政府も、そのような抽象的な設問に大まじめで答えるはずはない。にやにやしているだけで何も言わない。しかし心根は容易に想像しうる。後者の説に傾いているにきまっている。国際法の基本的な大原則の一つに、「疑わしきは主権に有利に解釈せらるべし」である。なるべく法的拘束から逃げようとするのは当たり前だ。

■集団的自衛権の欺瞞


第二に、集団的自衛権という第二次大戦前にはお目にかからなかった言葉は何なのか。そもそも個別的自衛権だって、理論上、主権国家にとって当然の固有の権利ではあるが、乱用されたら際限はない。なんでもかんでも自衛戦争という言い訳ができる。そしてまた、実際そうである。
集団的自衛権とは、自国に直接関係はないが、友好国に外部から侵略の事態が起ったならば、これを救済におもむいてよいという権利である。これは便利だ。これで自衛戦争の範囲が、格段に広がった。
ここで、とくに指摘しておきたいのは、集団安全保障機構の問題である。
たとえば、西側のNATO機構や東側のワルシャワ条約機構がそうである。それだけではない、二国間の安全保障条約、日米安全保障条約も実は本質的に同じ事である。
これは何を意味するのか。一口に言えば、国連憲章の言う「集団的自衛権」という権利を別の条約で手当てして、そっくりそのまま義務にするというものである。いずれも加盟国の一つが武力攻撃を受けた場合は、他の加盟国は武力を持って救援する義務があると書いてある。権利を義務に転換するとは放れ業もいいところだ。
なんのことはない、これは第二次大戦前の「攻守同盟」と変らないではないか。かつて、いたずらに戦争を拡大するから適当でないと道義的非難を受けた「軍事同盟」と、どこがちがうのか。
しかも国連憲章は「地域的取り決め」を奨励している。地域的な安全保障のアレンジメントにも積極的意義を与えているわけだ。ここが前身の「国際連盟」と違うところだ。国際連盟は、地域的結合(グルーピング)が国際社会の分裂傾向を強め、ひいてはグローバリズムの国際連盟の理念に相反するとして認めようとしなかった。
第三に、自衛権行使には、安全保障理事会がなんらかの措置をとるまで、という条件があるが、その実際上の意味は、自衛権を行使してとりあえず侵略を防いでいれば、国連という平和維持機構が助けに来てくれるということである。これは建て前である。そんな実例は一つもない。超大国の対立を前提とした安全保障理事会では、そのような措置は望めない。
つまり、自衛権の行使には建て前として国連のコントロールがあるが、実際上は無きに等しいということなのである。理屈さえつければ、何でもできるのだ。

■「国連」の真の名称は「連合国機構」


国連憲章には、いわゆる「敵国条項」というのがある。戦後三十有余年も経っているのに、いまだに第二次大戦中の枢軸国、すなわちわが国とドイツなどを差別する規定が存在する。具体的には第五三条第一項後段と第二項、それに第一〇七条である。
それは旧敵国の侵略政策の再現に対処するために結んだ、地域的取り決めの発動に当たっては、国連のコントロールをいっさい受けない。
たとえばソ連が東欧諸国と個別に結んだ一連の二国間条約がそうであり、もう消えてしまったが、かつての中ソ条約はわが国を対象としている。
第二に、連合国に対して、第二次大戦後の戦後処理のためには、国連の制約から脱して自由に行動することを認めている。敵国管理の方法も、平和条約の内容も、まったく自由勝手であるというのである。このことを根拠として、ソ連は、ベルリン問題や朝鮮統一問題などは国連の枠外だと主張したことがある。
しかし、戦後もうこれだけ年月が経っているし、わが国は国連に加盟できたのだから、当然平和愛好国と認められたので、敵国条項のごときは、もはや有名無実と考える人がいるかもしれない。まことにごもっともである。しかし不条理の世界で常識を期待しても無理というものだ。たとえば、ソ連は、一九六七年、六八年、それにチェコ侵入の後、敵国条項を引用して西独に干渉する権利があると宣言した。米国は直ちに、NATOの反撃を惹起するとして反対したが。
わが国は、日ソ共同宣言で、両国間の関係は国連憲章の第二条の原則に従うことを、ソ連から一礼とりつけている。だから安心などと言ってはいけない。日ソ間には二国間、多数国間の条約文書のジャングルがある。ジャングルは複雑怪奇で相互矛盾するものがあっても不思議ではない。なにしろ相手は法律論が大好きで、一筋縄ではいかない。将来、情勢の変化によっては敵国条項を持ち出さないとはかぎらない。
敵国条項をちょっと拡大解釈すれば、旧敵国の行動はいつ何時でも阻止する権利が生じる、といういうことになりかねない。
わが国としては、そんなものは速やかに削除してもらいたいものであるが、憲章改正手続きは気が遠くなるほどの大事業である。安全保障理事会で拒否権の行使なく合意を得るなど至難の業だ。したがって、いかに不愉快であっても、日本は敵国条項付きの国連で我慢せざるをえない。日本は外様大名なのである。

■小国の安全保障理事会参加で弱体化する国連


前身の国際連盟にはない国連の一つの特徴は全加盟国を法的に拘束する決定ができる執行機関があることである。それは安全保障理事会である。ただし安全保障理事会が平和維持のために行う活動は、国連の名で、各加盟国に代わってなすものである。しかも、必要な場合は軍事行動をとることができる(第四二条)。常設の軍隊はないので、つど各加盟国から兵力の提供を受けて、「国連軍」という地位を得る。
基本的な訓令は、国連事務総長が与える。
国連軍派遣の例は、特異な例で朝鮮戦争、コンゴ紛争、中東紛争、キプロス紛争などがある。
ところで、安全保障理事会には、いろいろと問題がある。ここでは「執行機関」という観点から、一つの問題を取り上げる。
一九七八年、安全保障理事会の非常任理事国の選挙で、日本はバングラディシュに大敗した。日本では外交の大失点と糾弾され、ひいては経済援助の有効性を問い直す向きまであった。それらは問題の核心に触れておらず、結局わが国の反省はピント外れとなってしまった。
安全保障理事会は、戦争まで行うことのできる執行機関である。単なる協議機関とは話が違う。経済社会理事会など各専門の協議機関であるならば、バングラディシュのような小国が「大国の独占はけしからん」と議論するのは結構である。
しかし安全保障理事会は執行機関なので、どの国でもメンバーになって然るべきという議論は、じつにナンセンスだ。執行機関のメンバーとして、国連の行動に積極的に参加し工研する意志と能力が求められる。さもなければ、ますます、国連の無力化を助長することになる。
こんな事を言うと大国主義だ、と非難されるかもしれない。しかし国連の構造自体が、そもそも大国主義でできている。大国一致の原則が消えた失せたら、事実上崩壊するのだ。

■国連はUniversal【普遍・万能】な存在ではない


国連加盟国は、すでに百五十あまりに達している。加盟していない国はないことはないが珍しい存在になってしまった。(編:1981年当時、現在は191カ国で1991年大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、2002年にスイスも加盟している。台湾は1971年に中国加盟で脱退したが再加盟を近年予定している)
永世中立国を国是とするスイスの国連加盟促進論者は言う。これほどまで国連がユニバーサルなものになったのだから、スイスとしては、集団的軍事行動には参加できない、しないという基本的了解をとりつけて入ればよいではないかと。それでは、国連はユニバーサルな機関なのだろうか。そうではない。本質的にそのようなものではありえない。建前としてさえそのような作り方はしていないし、そのように運営もされていない。国際社会における加盟国の範囲が事実上ほぼユニバーサルなものに近づいているのに、本質的にそうではないとは皮肉なものである。
まず国連の名称を見てみよう。
日本語の正式訳文によると「国際連合」である。国連憲章は、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、中国語の五ヶ国語が正文であるから、国連の正式名称は五つあることになる。United National Organisation/des Nation Unies/聯合國・・・
第二次大戦中、連合国側はいろいろな呼称を用いた。アライド・ネーションズと言ったり、アライド・ワパーズまたはアライズなどと称して、統一はなかった。しかし一九四七年(昭和二二年)の「連合国共同宣言」では、すでに「ユナイテッド・ネーションズ」の呼称を用いている。
これで一目瞭然だろう。国連は第二次大戦の終結前、連合国側によって作られた。だから国連は、連合国の戦争遂行機関であり、戦後の新しい国際秩序の執行機関であり、旧敵国の管理機関なのである。それがそもそも創設の趣旨であった。国連の本質は、まさに「連合国」であり、「国際連合」と誰が訳したか知らないが、つまらぬ誤解をもたらした責任は大きい。
いずれにせよ、国連は一種のクラブであって、趣旨から言っても手続きから見てもかなりの閉鎖的集団の体質をもっていることがわかる。たまたま世界のほとんどの国が参加したからと言って、その本質まで変化したということはない。

■国連の基本理念は「現状維持」、変化がすべきものをさせない矛盾


国連の本質の一つとして、第二次大戦後の国際新秩序を維持することを目的とする機関であることは、すでに述べた。第二次大戦後、連合国がその政治的優位を確保して、国際社会の運営と調整に当たろうというわけである。敵国条項に象徴される旧連合国と旧枢軸国との対立という図式の維持も問題だが、そんなことよりもその根底にある基本的な考え方がもっと重要な問題だ。
つまり、国連の基本理念は、第二次大戦の結果をそっくりそのまま、できるだけ長期に維持しようということである。第二次大戦後の「現状維持」を恒久化しようとするものである。国連は第二次大戦後の現状維持の執行機関なのである。
当然のことながら、国際社会は刻々と変化する。長期的に見れば、国際社会は流動するものである。それにもかかわらず、特定の時点における「現状」を固定してよいものだろうか。またそんなことが人工的にできるものだろうか。
国連憲章によれば、各加盟国は、主権の平等、領土保全、政治的独立、内政不干渉が理念として保証される。ひと口に言えば、各加盟国は、政治的には、いかなる意味でも現状の変更に反対しうるのだ。反対しうるだけではなく、反対の大義名分があるのだ。まさに超保守的メカニズムである。
このような建て前で、しかも実際上もそのようにしか機能しないとすれば、国連は早晩、世の中の変化に即応できなくなることは目に見えている。
国際社会の歴史に一貫して流れるのは政治権力の消長であり、お互いの消長の差から非つっぜんてきに生ずる紛争であり、そして戦争よりおのおのの政治権力の配分が変更された、ということだ。歴史は長期的かつ巨視的に見れば、誰しも当然なことだと思うだろう。世の中流動的なことは、なんの不思議もないと言うだろう。
ところが、国連の基本理念は「現状維持」だというのだ。時の流れと関係なく言うから、論理的にもちぐはぐな言い方になる。
国連は第二次大戦後の現状維持の執行を目的とする暫定的国際平和維持機構である。恒久的機関かのような前提でものを語るからおかしなことになるのだ。
「現状打破」は当面タブーである。しかし現状打破はすべて悪ときめつけるわけにいかない。悠久の歴史から見れば、それが原則なのだから。
問題は、現状の変更を戦争などというすさまじい手段を使わないで、実現できないのだろうかということである。国連がその役割を果たせないことは、これで明白になったと思う。これは、現在、国連が事実上無力だからと言うのではない。その本質上、戦争に代わるものではありえないからだ。

(明日につづく)

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小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(2) 言葉を翻弄したことで文明史を曇らせた 
Tuesday, August 21, 2012, 05:27 PM
晴 10時 浅草での空間線量は129ベクレル/立法メートル

雲一つないピーカンです。昨日に続いて抜粋を掲載します。

■「現状維持」での双方の「正義」が戦争を生む


国際紛争といっても経済問題は深刻な問題とはならない。取引から生じる双方の利益が公平ではないというのであれば理論的には実際上も妥協可能である。経済摩擦がいかにエスカレートしてもどの程度で妥協できるかを心配するだけである。自動車対米輸出問題も単純な取引問題へ帰着するであろう。しかし国際関係では量的利益分配とは質的に異なる問題がある。一言で言えば主権国家の数だけ「正義」があるのだ。成長する国は長期的には勢力範囲の拡大の必要性を感ずるであろうし衰微する国は勢力範囲の縮小による既得権を死守するのが正義となる。このような紛争は足して二で割る手法は適用できないのである。
第二次大戦では正当な「生存圏(レーヴェンスラウム)」とドイツは言い、「大東亜共栄圏」と日本では言ったのである。
国際社会の歴史は地上における政治的権力の配分が変更されきた記録である。政治的権力の配分変更を一切認めない限り、勢力拡大はけしからんという異論は成り立たない。政治的権力の配分が平和的な話合いで行われたとしよう。しかしその場合は国際社会でお馴染みの言葉「現状維持」に沿った内容でしかないのである。長期的展望に立てば「現状維持」の固定はいかなる尺度をもってしても「正義」に合致するものではない。したがってそんな原則に国際社会は合意できるはずはないのである。
現状の変更が平和的手段でできないと言っているわけではないが、自ずから厳しい限界があるということだ。地上の政治権力の配分の変更を求めて起こる国際紛争は、十中八九戦争にまでエスカレートせざるをえない。相異なる二つの「正義」の衝突には本来妥協がないからである。

■日米開戦がなかったら不安定な国際関係のままだったろう


我が国は米、英、蘭、中国、それに末期にはソ連が加わる連合軍を相手として、じつに五年に近い長期間にわたり、膨大な人的経済的資源を投入して戦争を遂行した。そして降伏した。
まったくムダなことをしたのだろうか。民主主義陣営に挑戦する不逞(ふてい)な試みだったのであろうか。侵略戦争などと言う、とてつもない大それたことをやったのであろうか。もし、まったくそのとおりであるならば、戦争自体が無意味であったことになる。わけもわからず動員された兵隊は、ムダ奉公をしたのであり、戦場に倒れた人たちは、犬死にしたことになる。現在でも、あの戦争に直接参加したことのある生存者は、複雑な心境にあるに違いない。まったくムダ骨であったとすれば、戦死してしまった同僚を限りなく憐れみ、このような戦争を起こした政治的責任者を恨むほかない。戦後の我が国の世論状況は、こうした物の見方を当然として、信じて疑わないかのように見える。
それでは戦争をしなかったならば、日本はどうなったかという想定を提案したい。
まず日米開戦直前の国際社会の政治的経済的文化的状況から出発する。その自転の日米間の紛争を正確に認識してみる。いろいろ複雑に絡み合う紛争の複合体が浮かび上がってくるだろう。おそらく最大の紛争は北東アジア大陸の支配権を巡る抗争ということになるであろう。当時の客観情勢の推移のシミュレーションを行いながら、その紛争の解決には戦争という最終手段をとる以外に道はないと判断するまでのプロセスをつきつめてゆく。
その自転で戦争を避けることが本当に可能であったか、どうか、そして、さらに戦争不可避あるいはほとんど不可避の状況で、戦争をしないという意味は、いかなることを意味するか考えてみる。あれほど深刻な国際紛争を、未解決のまま放置することはいかなることを意味するか考えてみる。
おそらく日米両国に関わる極東情勢は、手のつけようもない不透明で不安定な重苦しい様相を呈していたであろう。これは中毒症状の初期段階である。
我が国は戦争なしで、当時の満州や中国での利権に始まる一連の国益を放棄する用意はなかった。当たり前である。死闘の後の敗戦により強制的に放棄させられた。ともかく一刀両断に放棄したからこそ、戦後、まったく別の大戦略に展開できた。
我が国の国民経済が、今日もかく繁栄していることは、戦争中の戦争努力とまったく無縁ではないのだ。

■現在の「戦争」は宣戦布告なしの国家間武力紛争をも含む


第一次大戦後の国際社会には戦争を非合法化する動きが生まれた。たとえば国際連盟規約は、その前文冒頭において、「締約国ハ戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾シ」と言っている。
一九二八年の不戦条約では、さらに一歩進めて、その第1条において、各締約国は、「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄(ほうき)スルコト」を合意した。
この条約文の注目点は「戦争」という語を不用意に二度も使用したことであり、ある種の限定した戦争のみを禁止したことである。不戦条約成立後も、現実には戦争が続発した。一九三一年の満州事変、一九三九年のイタリア・エチオピア攻撃、およびソ連の対フィンランド武力行使等、枚挙にいとまがない。
そのとき、列強は自分の戦争を正当化するために、二つの理屈を使った。第一は自衛権の行使であるから、条約上放棄した戦争とは関係ないという後ろめたい言い訳である。そこで補強のために援用された第二の理屈が「戦争」ではないという理屈であり、「戦争」という呼称を注意深く避けることであった。我が国の場合で言えば、「満州事変」「支那事変」がその好例である。つまり「戦争」の語を無理やり法技術的に限定された意味に仕立て、果ては戦争ではないのだから、両国間に戦争状態は存在せず、戦時国際法ましてや戦闘ルール「戦時法規」の適用外であるというつまらぬ議論にまで発展してしまった。第二次大戦後、国際社会は「戦争」の語を法技術的意味の中に追い込む愚を避けるために二つの工夫をした。一つは念のために条約文書に「戦争」の語を使用しないことであった。たとえば国連憲章では、その第二条第四項で、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」と規定している。また、国連自身の武力行使を「強制措置」と表現したり、加盟国には個別的または集団的自衛権の行使を、一定の条件の下に合法化しているが、こうした事態の表現として、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合」と言っている。
その後、国連を含めて国際政治場裏では「戦争」ではなく「国際的武力紛争(インターナショナル・アームド・コンフリクト)」の語が頻繁(ひんぱん)に使用されるようになり、定着した。もう一つは、戦時国際法、特に戦時法規の分野において、国際的武力紛争が起った場合、呼称、経緯、手続きのいかんに関わらず、戦闘のルール(戦時法規)が無差別に適用されるようになり、立法技術上格段の進歩を遂げたのである。
以上のとおり、現代国際社会は、国際的性質を有する武力闘争に、理論上も実際上も特別の差違を認めない方向に、休息に移行しつつあると言える。もはや、戦争と、そうでない武力紛争とを区別する実益は、もうなくなったものと考えなくてはならない。「国際的武力紛争」という国際社会で定着した呼称を使用するのも一案であるが、専門家の術語のような響きがあって、それに少々冗長である。それならばまた昔に帰って、「戦争」の語を広義にとって復活させても良いではないか。

■「国際紛争解決ノ為戦争」ではない戦争はあるのか


「戦争は国際紛争解決の一手段である」と言い切るが、解決手段ではない戦争はあるのかという疑問を抱く人がいるかもしれない。概念の無理な単純化により、現実の国際社会の基本構造を見誤り、なにより戦争の文明史的本質の理解を妨げることにならないか、ということである。
そこで「国際紛争解決の手段」という言葉の意味を、戦争の本質というテーマの前提問題の一つとして明らかにしておかないわけにはいかない。一九二八年の不戦条約第一条に端を発する。
「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄(ほうき)スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」
ここで放棄した戦争は、明らかに限定的なものである。「国際紛争解決」を目的とした「国家ノ政策ノ手段トシテノ」戦争を放棄したのである。つまり立法の趣旨は、戦争を全面的に放棄するのではなく、々餾殃響莢魴茲亮蠱覆箸靴討寮鐐茲函↓△修Δ任覆だ鐐茲瞭鷦鑪爐吠けて前者のみ放棄することであった。そして後者の合法的な戦争の例は、条約上の義務による国際的安全保障のための武力行使がまず確立した。不戦条約調印の際には、国際連盟規約第一六条および一七条、ロカルノ保障条約、永世中立保障条約のような多角的な安全保障機構による武力行使は、当然合法とするものであった。
つぎに来たのが自衛権の行使であった。自衛権は主権国家にとって固有の属性であるから、条理上、当然合法であるという主張であり、当時の国際社会は簡単に受諾していった。
このように戦争は大きく分けて二種類あることになった。このような理解が一九二八年の不戦条約の解釈として確立したのである。当時の平和主義のムードの中で、戦争そのものを、なんとか法の規制の下に置こうとした努力は、十分理解できるものである。少なくとも戦争を政治的に可能な限り制限しようとする試みは、それなりの意義があった。また戦争を合法、非合法なものに分けることに不都合もなかったのである。
問題は「国際紛争解決の手段」という概念が一九二八年から理念上の混乱を生んだのである。しかし名文として国際社会に歓迎され、以後の各種条約や日本国憲法にも戦争非合法化の文言としてくりかえし使われてきた。この場合も条約上の義務や自衛権に基づく武力行為は含まれないという解釈が広く確立してきた。
よく考えてみれば、国連の強制行動も、自衛権の行使も、結局のところ国際紛争解決の手段と質的に異なるものとして区別する理由は全くない。つまり国際紛争解決の手段ではない戦争などありえないと割り切らないと、かえって戦争の文明史的本質がわからなくなる。
むしろ国際社会の基本構造の解明にとって有用であり、何よりも戦争の文明史的本質の理解にとって、大きな前進を意味するものである。

■建前と実態があまりに離れると、その国は破滅する


日本人は建て前と本音は違うものだと思っている。少なくとも違うものだと普通に思っている。だから建前にこだわるのは野暮であり、適当に本音を貫けば万事めだたしめでだしということになる。たとえば、憲法は憲法で、あれでよいではないか、現に柔軟な解釈と運用で然るべくやっている、それは現実にはなんの不都合もないくらい上手にやっているではないか、という議論が横行している。
文明史をひもとけば、建て前と実態の乖離がひどくなって崩壊した事例はたくさんある。まずローマ共和制の崩壊と清帝国を例にとろう。ローマ共和国の基本原則の一つは、直接民主主義以来の伝統によって、選挙は物理的にローマ市内におもむいて票を投ずることであった。これが建前だ。ところが近隣国を併合し、遠く山を越え海を渡って植民地を誠意服してみると、ローマ市民権を持つ者は選挙の度にローマまで帰らなくてはならない。この制度が機能しなくなっても神聖な建前を変えようという度胸のある政治家はいなかったのである。ところがたった一人いたのである。シーザーはアルプスの彼方のガリアを征服して問題の核心に気付いた。これだけ広大な領域を、ローマ共和制という古典的な都市国家の論理で統治できるはずがないと。解決策はただ一つ、ローマ共和制を発展的に解消して、もっと次元の高い政治機構を作るほかない。しかし天才は理解されず、真面目だけれど頭の悪いブルータスは個人的な野心と誤認してシーザーを殺してしまった。
その後ほどなく、ローマ共和制は崩壊してローマ帝国に移行することは、周知の通りである。ただし「ローマ帝国」が最良の解決策であったか否か、これは別問題である。

■日本は清帝国の二の舞にならないか


清帝国も、建前と実態の乖離で崩壊した好例である。中国には歴史的に中華思想の原則がある。中国は世界の中心であって、文明の担い手である。周辺の野蛮国とは対等な関係はありえない。まず中国の君主だけを「皇帝」といい、外国の君主はみんな「王」という。皇帝という称号は天下を統一した秦の始皇帝からはじまる。秦王では自分が滅ぼした楚などの七国の君主と対等になってしまう。その後、歴代の王朝も倣い、王なら大勢いるが皇帝は一人である。これらの王はみんな皇帝の臣下であり、どんな命令でも聞かなければならない。唐の玄宗皇帝は寿王の妃楊玉環をとりあげて楊貴妃としたが、皇帝の命令とあれば、王妃でも献上させるほど地位がかけ離れているのである。その皇帝も中国に一人ではなく、全世界にも二人といてはいけないことになっている。外国の君主はすべて王扱いである。ということはみんな中国皇帝の臣下であって、絶対に命令に従わなくてはならなくなってしまう。これでは本当の意味の外交はありようがない。欧米列強の帝国主義の時代であり、アヘン戦争でイギリスに大敗し、フランスにはインドシナ半島を占拠され、ロシアのシベリア征服によって蒙古から満州へと封じ込められて、ウラジオストックまで奪われる。日清戦争では日本に敗けた。
それでも、清帝国は中華思想の建前を変えない。いや変えることができないのだ。清の皇帝の謁見は三拝九叩の礼といって、皇帝に会う者は誰でも床に頭をすりつける仕草を九回もしなければならない。ヨーロッパやアメリカなら、こんな卑屈極まりない敬礼は奴隷にだってさせない。中近東にもこんな敬礼法はない。英国式の謁見は清の役人はどうしても承知しない。イギリスなんて野蛮国とは格が違うというわけだ。
貿易も中国の建前は自由貿易だ等価交換だのおよそビジネスの理念とは正反対で、貢ぎ物を奉ると広大無辺なる皇帝の慈愛により御下賜品を賜るのである。今までは英国人が殊勝(しゅしょう)にも時計などの物産を持って朝貢してくれるから、皇帝はその心ばえをめでて、おまえらの欲しがっているお茶や絹を下賜してやっているといった朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)である。中国が文化的に世界最新国で中国経済が世界を圧していたときはこれでよかった。しかし産業革命後のヨーロッパ諸国のように、科学技術で中国以上の国が現れてきたとき、こんな時代遅れの建前にしがみついていた清帝国の悲劇があるのだ。
中国のお茶や絹は英国に欠かせない物産であり、反対に英国の物産で中国人の欲しいものはなかったから英国は銀を失うばかりである。こうなると英国はたちまち海賊としての本性をあらわし、清国の建前と現実の乖離をついてきた。アヘン戦争だって何だって根本的な原因はまさにここにあるのだ。列強もイギリスの先例にならって中国をいじめぬき、中国は亡国一歩手前に押しやられてしまった。いずれにせよ清帝国末期の政治的社会的建前は、グロテスクなほど、実態と乖離していた。結局1911年辛亥革命によって崩壊する。
この点日本は賢明であり、明治維新は政治的には「復古」という建前をとりながら、じつは「開国」をなかば意識的に用意していた。つまり未来に対して開放的なメンタリティが事前に準備された。具体的には立憲君主制という建前の明治政府が成立し、その建前と制度は第二次大戦までさしたる破綻もなく続いた。それはそれで注目すべきパフォーマンスと言わざるをえない。
はたして日本の第二の維新、第二次大戦後の変革は評価できる時期ではない。そこはかとなき不安があることは否定できないのではないか。
(明日につづく)
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小室直樹「新戦争論」を今こそ読む(1) 平和主義者が戦争を引き起こす 
Monday, August 20, 2012, 02:14 PM
晴 10時 浅草での空間線量は135ベクレル/立法メートル

昨日古本屋で小室直樹「新戦争論」(昭和58年刊、光文社)が運良く手に入ったので徹夜で読了しました。ちなみにAmazonの中古価格は当時の10倍です。

30年前に小室直樹は現在問題となっている国際紛争と国連(United Nations)の問題を指摘していたと言うことに驚かされます。

以下簡単に本書の内容を追って簡潔に抜粋しておきます。ソビエト連邦(ソ連)はそのままでとします。

■"平和主義者"が戦争を引き起こす


戦争は個人の心の持ちようではない。個人の命題が社会(国家)にも成立するという並行主義(パラレズム)は必ずしも成立しない。ひとりひとりが平和を願えば世界に平和がもたらされるという奇妙な念力主義に陥っているのである。日本の平和主義者は戦前の神州不滅主義となんら変らないのである。
戦前では軍国主義者(ミニタリスト)がはびこっていたと吹聴されているが、戦前も戦後も日本国内には真の軍国主義者はいないのである。なぜなら軍国主義とは戦争に勝つことが目的であって敗戦の原因をひとつひとつ潰して行かなくてはならないのである。不利であれば開戦には反対するであろう。戦前に敗戦の研究などしようものなら豚箱でなぶり殺されるのがオチであった。
一方アメリカの大学には軍事学部(編:おそらく地政学部と思われる)があり、軍事研究は大学生までもが行っている。日本は今でも軍事研究はタブーとされ、知らないことが戦争を起こさないことだという信仰にまでなっているのである。

■猫を虎に育てる平和主義


第一次世界大戦が終わってヨーロッパは灰燼(かいじん)と化し、英国人もフランス人もドイツ人もああもう戦争は嫌だ、どんなことがあっても戦争だけはしたくないと叫んでいた。こうしてヨーロッパに現れた平和主義(パシフィズム)運動が第二次大戦の原因となったのである。平和主義が高まると政治家達は世論に迎合して表立った武力解決を訴えることができなくなったのである。
そこでドイツでは連立政権の弱小政党の党首に過ぎないヒットラーはフランスとイギリスの平和への賛歌を逆手にとるという博打を打ったのである。
ベルサイユ条約を蹂躙し、軍の再軍備と拡充というをしてもイギリス、フランスは軍事行動をとらないと読んだのである。
(編:現在の日本の状況は70年前のヨーロッパと同じではないか!)

■平和とは戦争のない状態ではない


平和とは「安定し均衡した形で長期間維持するシステム」であり、きわめて複雑で微妙な人工的な仕組みでなのである。戦争より合理的かつ実効的な国際紛争解決手段を考案しない限り、戦争は消滅するはずがない。

全面降伏論は論理的におかしい。紛争にならなければ戦争はおこらない。もし他国のどんな不合理な要求でも受諾することとし自国の主張はほどほどで国益が損なわれても外国の圧力に屈服する態度を続けて政権が持つわけがない。

非武装中立は白昼夢である。国際法の一分野で中立法というものがあり戦時下の中立国には自動的に付加される権利と義務が発生するのだ。義務とは「不参加」と「不偏」であり、交戦国の戦争遂行に便宜を与えてはならないのである。もし他国が中立国の領土を軍事的に利用するのであれば中立国は実力を持って排除する義務が生じるのである。もし日本が中立国を宣言するのであれば米軍を領土領海から武力をもってしてもすべて排除しなければならないのである。
(編:空想平和主義者の社民党党首の福島瑞穂がいかにとんちんかんであるかが判るであろう)

■戦争は紛争解決の一手段である


戦後日本はなんとなくうまく行っているのではなく運が良いだけである。万事受け身でリーダーにはならず二番手主義で上手く立ち振る舞った結果がたまたま良かったのである。しかし国際社会の客観情勢は出鱈目の気まぐれに変化するものではなく、何らかの関連要素が並び国際社会の本質に基づいた変化があるのである。過去の教訓が未来にも当てはまる限界を見極めつつも歴史を学び、長期的巨視で眺めれば先見性は身につくのだ。
国際社会の本質とは
・国際関係には少なからず紛争がある。
・紛争は解決されねばならない
・戦争は、そのような国際紛争を解決するための一つの手段である。
・しかもそれは最終手段である。
戦争と比べて、より合理的で、より実効的な国際紛争解決の手段はまだ考案されていない。
もしそれが考案されれば、戦争という手段は自然に消滅するだろう。それ以外に戦争をなくす方策があるはずがない。

■しかし尖閣列島、竹島問題は両国間で凍結(棚上げ)が合理的である


戦争は私怨(しえん)ではなく、主権国家間の紛争解決の手段である。国際社会が仲裁に入れば戦争には至らないという結論に辿り着くことは当たり前であるが、平和的な解決がない状況に至って国際社会が割ってはいるということはすなわち武力介入を意味するのである。つまり第三国は武力介入だといい、国連は強制行動と呼んで一つの戦争を別の戦争に置き換えるだけに過ぎないのである。
中国との尖閣列島、韓国との竹島は事実上両国間で棚上げしてしまった。両国とも領有権の主張や法的解釈はそのままである。なぜ二つの紛争が関係当事国の死活問題にならないかというと、特に経済的資源の面からは具体的な利害関係が希薄なのである。結局建前として法的な紛争に過ぎないのであればおのおのが法的立場を明確にしておけば済むことだ。それ以上の意味を持つようになれば、さらに一歩踏み込んだ解決を図らざろうえない。

■実効支配されている北方領土の解決は困難である


日本の歴史的根拠に対してソ連は連合国の敗戦処理で正統に領有した立場をとっている。両国にとって正統性の問題である。しかし北方領土の場合ソ連が軍事基地を置き実効的支配を達成しているのである。もし日ソ両方にとって致命的な問題ならば可及的すみやかに解決せざるを得ない。つまりせんそうを覚悟することである。
ソ連が北方領土を返還する可能性は二つしかない。日本の実力行使で強制すること。もう一つは客観的情勢の変化により返還の気運がソ連内で高まることを気長に待つだけである。

■紛争を放置すると文明は崩壊する(イラン人質事件の教訓)



一方で国債紛争を棚上げしたばかりに国際社会が崩壊した例をあげる。1979年11月に発生したイランアメリカ大使館員人質事件である。本来であれば国際法の重大な違反であるが、ホメイニ師によるイラン革命があった年であり、対応する中央政府がないため両国間の直接交渉ができず、軍事行動で救出する作戦は失敗して長期化した経緯がある。アメリカが保護していたパーレビ(パフラヴィ)国王の死去をもって人質解放となった。

この事件の余波は関係当事国だけではなく国際社会への疑念が広く芽生えたことである。つまり国際法の原則が否定され長期にわたり放置された結果である。アラブ諸国に西洋文明の現行国際法を押しつけてもいいのかという発言まで加盟国で公然とされるようになった。こうして国際社会は深刻な自己中毒に陥ったのである。

■戦争は副作用のない消極的な万能薬


数奇な例を三つあげる。ひとつは14世紀中から15世紀中頃にまで及んだ英仏の100年戦争である。フランス王の王位継承を巡ってイギリス王とフランス王が戦争を始めて100年も戦闘は続いたのである。こうなると役者もかわり戦争目的も曖昧となり変質していく。そのうちにイギリス、フランス両国も変質し国王の家産国家から貴族などの上流階級の政治意識が芽生えて後世の国民国家が萌芽するようになったのである。肝心の戦争で紛争は解決されなかったがジャンヌダルクに代表されるように国民感情が変化して本来の紛争原因は消滅したのである。
二つ目は17世紀のドイツで起った30年戦争である。カトリックとプロテスタントの宗教戦争にデンマーク、スェーデン、フランスが干渉して当時の列強の離合集散の場となったのである。この場合も戦争の目的はくるくる変ったが、ドイツは壊滅的な被害を受けながらも近代社会への脱皮のきっかけとなったのである。
三つ目は南米パラグアイとボリビアによるチャコ地方の領土紛争である。第一次大戦後に石油があるという噂が原因でかたや富士山より高い4000mもの高地にあるパラグアイと海抜0のボリビアの兵隊が闘ったのである。どちらにしても軍隊は過酸素症か高山病となりまともに闘えないことがわかり、石油も出ないことが判明したことで領土問題は雲散霧消してしまったのである。さらには両国では潜在的にも領土問題はないというコンセンサスが出来上ったのである。
戦争という巨大な組織的努力の体系は、めぐりめぐっても、かならず紛争解決という結果をもたらす。その結果が良いのか悪いのかは、別次元の評価の問題だ。どんな遺憾な結果でも、結果が出ないより差し引きましだと言わざるをえない。これは、残念ながら真実だ。

(明日に続く)
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8/19 10時 浅草での空間線量は129Bq/m^3  
Sunday, August 19, 2012, 12:40 PM
晴 10時 浅草での空間線量は129ベクレル/立法メートル

塩昆布でつくる胡瓜の浅漬けです。
作り方は
1)胡瓜を適当に切る。(茗荷なども加えれば尚良し)
2)ビニール袋に入れる。
3)塩昆布を適当に放り込んで混ぜる。


これだけ。塩昆布だけだとおにぎりの種ぐらいにしかなりませんが、胡瓜とあわせるとこれが絶品です。寝かせる必要もなくすぐに食べられます。酒肴にもよいですね。

夏は谷中生姜の甘酢漬と塩昆布の浅漬けは私の定番メニューです。
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日韓の銀行間では情報は筒抜けなのだそうで 
Saturday, August 18, 2012, 01:05 PM
雨 10時 浅草での空間線量は128ベクレル/立法メートル

海外に赴任されている知人と夜中に長電話しておりました。Skype(スカイプ)はネットをいじりながら話せるのでついついダラダラと話し込んでしまいます。

なぜ消費税増税法案が話題になっていないのだ?



日本を離れている人が感じる最大の疑問なのだそうです。領土問題は国の問題である反面、増税は明日の生活に直接影響ある事案がなぜ話題にならないのだろうかとおっしゃっていました。
ギリシャやスペインでは社会保障費切り捨てと増税が同時に行われましたが、連日デモや抗議行動が随所で行われています。日本もデモがあるのかと思っていたら国民はどうも怒っていないので不思議な国民だなと異国で感じるそうです。

海外でも消費税(物品税)は多くの国が導入されているそうですが、物価に影響を与えないように生活必需品や公共料金は無税があたりまえ。帰国する度に日本の異常な物価に驚くばかりとのこと。

シンガポールやオーストラリアなどに居住を構える医者や経営者といった富裕層が目立って多くなったそうです。老後は日本に居ても財産を国に毟られるだけという危機感があるそうです。日本を離れてみると国防も放棄して米中露三国の狭間で揺らぐ島としか見えず、独立国の体を為していないと見えるそうです。ですから移住者には核兵器武装論者がほとんどだと笑ってられました。
日本が独立国家だなんて思っているおめでたい年寄りがいることが私には驚きですけども

尖閣や竹島へ軍事行動を自衛隊がとるというという選択はできません。なぜなら防衛庁の艦艇からミサイルといった兵器にいたるまでスイッチは米国が握っているからです。
自衛隊の兵士がいくらスイッチを押したところで兵器の鍵は米軍が持っているからです。

先日国内の米軍施設と空軍/海兵隊基地を調べてみました。主要な基地を除けば実は自衛隊と施設共用なのです。もしくは有事には利用できるようになっています。特に日本列島を貫く軍事通信網は自衛隊が居候のように使っているのが実状です。

空中警戒機(AWACS)や潜水艦、軍事衛星からのデータは米国の通信網が使えないと自衛隊は兵士一人も動かすことができません。日本列島全体が米軍の占領状態であり、自衛隊は消防署の活動を補助する消防団のようなものです。

独立論をぶちまけるのであれば、まずは憲法改正が論議されなくてはなりませんが、そのような政治家は皆無です。また国民の財産を守るのではなく収奪する政府・官僚はどう考えても独立国家ではなく傀儡国家そのものの姿です。

話し相手は銀行にお勤めだったのですが、ちょろっと最後に面白いことを話してくれました。ヨーロッパ系の銀行は個人の資産内容や入出金記録は国相手だろうと簡単には出さないそうです。もし顧客情報を提供したことがわかると取り付け騒ぎになるからです。プライバシーを守らない銀行は信用を一気に失うことを怖れます。

日本と韓国の銀行は役所・役人にベラベラ喋る


日韓租税条約が結ばれてから銀行預金者の資産は筒抜けとなったそうで、在日韓国人の預金は100%韓国政府に捕捉されているそうです。そんな昔話をしてくれました。韓国と日本の対立を煽っていますが、政府の実務レベルではこれほど息のあったタッグはないのだと笑い飛ばしていました。
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日本の家電ってたいしたことないよね 
Friday, August 17, 2012, 11:55 PM
晴 10時 浅草での空間線量は115ベクレル/立法メートル

DVDレコーダーが再生できません。Panasonic製DMR-XE1という機種です。5年前のモデルなのだそうです。
知人宅で使われていたもので、使えなくなったというので私の手元にあります。

蓋を外してみましたが、正直手に負える代物ではありませんでした。レーザー出力の調整用の半固定抵抗がどこかにあるのですが探すことはできませんでした。

それにしても天下の松下電器の製品がたった5年で動かなくなるということに暗澹とします。元々DVD再生用に中国製のDVD再生機がテレビに備えられているのですが、中国製も日本製もたいした違いがあるようには思えません。故障したDVDドライブはPanasonic製の表示があります。基幹部品が松下製にもかかわらず耐用年数がたった数年とはどういうこっちゃねんと呪いたくなります。

もちろん修理窓口に持ち込めば部品は交換してくれるでしょうが、数万円の修理代となります。それならばということで新製品に乗り換えてお古は私に回ってきたというわけです。

分解させてもらいましたが、これが当時4万5万円もしたのかと思います。当時はDVD録画機の高級品だったようです。

かつては海外のホテルではSONYかPanasonicのテレビがあることが一流ホテルの証だったそうですが、聞くところによるとLGかSamsung製がその地位にあるそうです。そういえば私も海外のホテルで日本製家電は見たことがありません。やはり多くは韓国製か中国製です。

内部の部品は日本製であっても組み立てられた家電製品はたいしたものはありませんね。
3年5年毎に買いなおさなければならないような製品は日本製とは認めたくありません。

日本の残る家電製品はデジタルカメラでしょう。シャープやSONY、松下といった家電メーカーはあまり明るい未来はないでしょうね。なぜならば

日本の家電メーカーはブランド力の維持をしてこなかったからです



ご存知ロレックスの腕時計は70年前のものでも修理してもらえます。また有名なオイスターパーペクチュアルという代表的なモデルは五〇年近くモデルチェンジさえしていません。つまり親子孫と三代にわたって使われても部品がなくて修理できないということはないのです。これがブランド力。

自動車も家電製品も耐久消費財から耐久がとれて単に消費財になってしまったわけで、それならば同じ機能なら手軽に買える物がよいという理屈になります。
このPanasonic製DVDレコーダーを見て改めてそう思いました。

月日が経つほど価値が無くなるもに囲まれる生活って嫌じゃありません?



六城ラヂウムは価値の減らない商品を造っていきたいと思います。

(補足)この機種は高級機ではなく普及機なのだそうです。あと裏蓋に大きくMade in Chinaとあり、日本製家電なんて今ではないよとのこと。それでもPanasonicとSONYは編集機能が充実しているので機能はすばらしいものだとのこと。ふ〜ん
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オスプレイがらみの茶番は続くよどこまでも(竹島と尖閣) 
Thursday, August 16, 2012, 01:14 PM
晴 10時 浅草での空間線量は100ベクレル/立法メートル

副島隆彦先生によると海兵隊オスプレイ配備反対をしているのはアメリカ空軍なのだそうです。

国内のアメリカ空軍基地は

青森県の三沢基地
東京都の横田基地(通称横田幕府)
沖縄県の嘉手納基地

の三箇所です。

一方海兵隊の基地は
山口県岩国
沖縄県普天間基地、バトラー基地、駐屯地六箇所、訓練地一箇所

嘉手納基地と普天間基地はたった5kmしか離れて居らず実質隣接している状態です。普通の感覚なら共有すればいいじゃないか?と思うでしょうがそうはいきません。

海兵隊と米国空軍は元々から犬猿の仲



海兵隊では輸送機としてMV-22(海兵隊用オスプレイ)を運用します。一方空軍では特殊部隊でCV-22B(空軍用オスプレイ)を使います。空軍では市街地への兵員降下や山岳部での運用が多いために故障墜落が多いそうです。その市街地演習中に墜落しているので米国内では騒ぎとなっているようです。
なぜ空軍は特殊部隊を抱えているかというと、輸送機や戦闘機を敵地に飛ばす場合、必ず地上から戦闘管制員(Combat Controller)が指示を行うのだそうです。精密爆撃といっても衛星写真だけではなく、爆撃地近くで目標指示と効果を判定する人員が必要です。
海兵隊よりも早く敵地に降りたって、隠密に行動したり、捕虜救出に向かうのが、この空軍特殊部隊です。

空軍としては今後特殊部隊を増員して、ミサイルや爆撃を戦略の主軸としたい。ところが海兵隊がMV-22で機動力を高めるのは主導権を奪われるというは面白くない。

なぜ主導権争いが空軍と海兵隊で勃発しているのかというと

アメリカのアジア分断工作が大詰めになっているからだと思いませんか



孤立させてキレさせて叩く

ロシア経済ジャーナルでは領土問題は中露の覇権奪取行動の一環であると断定しています。
http://archive.mag2.com/0000012950/index.html

注目は60年も北方領土や竹島は実効支配されている状況であり、尖閣諸島は日本が実効支配しているという点。

竹島・北方領土は政治アピールの道具なのでほっておけば実害はありませんが、尖閣は中国が軍事行動を起こしたら十分軍事対立に発展する可能性が高まります。

やはりそのような事態を想定してアメリカ空軍と海兵隊が反目しているとみるのが正しいように思えます。

お互い『正義の味方』の主役争いが軍上層にあるのです



以上店主の推測です。
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8/15 10時 浅草での空間線量は96Bq/m^3  
Wednesday, August 15, 2012, 10:22 AM
晴 10時 浅草での空間線量は96ベクレル/立法メートル

夏休みの課題図書として幕末〜明治の医療を調べてみたいと思っています。とはいっても何か適当なものはないかと思っていても浅学非才な自分としては思い当たるのは歴史小説のみ。

吉村昭「ふぉん・しーぼるとの娘」(楠本いね)
司馬遼太郎「胡蝶の夢」(松本良順)
有吉佐和子「花岡青洲の妻」
*吉村昭「暁の旅人」(松本良順)
*吉村昭「白い航跡」(高木兼寛)

ここらへんを読破してみようと思っています。*は読了

幕末での漢方医から蘭方医への転換を知ることで現代医療の根源を見つめ直そうという思いたったからです。

医学を権力闘争の道具として悪用したのは言うまでもなく森鴎外です。
帝国大学医学部と陸軍医局ではすでに山崎豊子「白い巨塔」のような権力争奪に森鴎外は明け暮れます。どんよくな名誉欲です。

森鴎外と青山胤通(あおやまたねみち:鴎外の同期・癌研の創設者)が医療を非道へ導いた戦犯者であると考えます。

過去ログ: 文豪森鴎外の裏の顔ー出世工作と賀古鶴所
鴎外は謎だらけ
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オリンピックは戦意高揚の場ってあたりまえなんだけどさ  
Tuesday, August 14, 2012, 01:53 PM
雨 10時 浅草での空間線量は96ベクレル/立法メートル

韓国が自国の鼓舞を衆目の大舞台でやらかして無用な顰蹙(ひんしゅく)を買っています。そこで日本オリンピック委員会(JOC)のサイトにある五輪憲章を読んでみましょう。
http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2007.pdf
1 オリンピック・ムーブメントとその活動
2 IOCの使命と役割
IOCの使命は、世界中で『オリンピズム』を推進することと、オリンピック・ムーブメントを主導することである。IOCの役割は:

(中略)

10. スポーツ選手を、政治的あるいは商業的に悪用することに反対すること。


このように冒頭からオリンピック開催の意義とIOCという実行組織の理念から外れております。このような文章は名目と建前の列挙なのでガキでもわかることばかりです。中学校の生徒手帳にある校則のようなものです。それでも

オリンピックの理念を堂々と破るほど不味い手はないですね。


建前や名目を露骨に破ることは相手方に制裁の口実をわざわざ渡すような行為です。
それも人種差別的発言をツイッター(別名:馬鹿発見器)で1行書き込んだだけで選手の出場取消という処分が下っている状況で、テレビに向かってのアピールは自爆行為です。

国際関係で悪役の烙印は大きなハンディです。


自業自得です(爆笑)

韓国選手の竹島メッセージは「政治的表現」
IOC委員長、五輪憲章違反との認識
産経新聞 8月14日(火)11時6分配信

 【ソウル=加藤達也】ロンドン五輪のサッカー男子3位決定戦、日本−韓国の試合後に韓国の朴鍾佑選手が竹島(韓国名・独島)領有を主張するメッセージを掲げた問題で、国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長は「IOCと国際サッカー連盟(FIFA)の規定に反する」と述べた。14日付の韓国紙、中央日報で、同紙のインタビューに答えた。

 IOCは五輪憲章で、五輪施設や会場などでの政治的な宣伝活動を禁じている。

 ロゲ会長は朴選手の行為について「当然、政治的表現に該当する」と指摘。その上で、「朴選手は領土問題に関する見解を明らかにしたわけで、IOCとFIFAの規定に反する」とし、五輪憲章などに違反するとの認識を示した。

 ロゲ会長は「選手は事前に規定を熟知しておくべきだった」とし、「例外を認め始めると統制が難しくなる」として厳しく対処する姿勢を示した。

 一方で、朴選手の処分については「現時点でメダルが剥奪されるという話をすべきではない」と述べるにとどめ、「FIFAが16日に出す報告書の結果に基づき、IOCの規律委員会で懲戒の適否や程度を決める」と語った。



夏休みの宿題をやらなくてはなりません。大人でも夏休みの自由研究はあるのです。
テーマはこれ。

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23年ぶりの金星蝕を観てみよう 
Monday, August 13, 2012, 12:06 PM
晴 10時 浅草での空間線量は88ベクレル/立法メートル

今晩遅くに三日月が金星の前を通り過ぎます。東京では2時44分から始まり3時29分で終わるとなっています。
23年前の金星蝕のときは何があったかというと1989年(平成元年)12月3日には親ブッシュがソ連ゴルバチョフ書記長がマルタ島で会見し冷戦の終結を宣言とあります。

今年は6/6に金星が太陽面を通過し、そして8/14に月面に隠れるという二つの行動があり、ある意味象徴的な天文ショーとなります。先週は火星にアメリカ探査機が降り立ったとのニュースがありました。

今回も大きな政治的な動きがあるのでしょうか。ソビエト崩壊により二大覇権国体勢が崩れ自由主義経済圏が拡大しました。その自由主義経済も23年目にして頭打ちになっています。

最近ではスーパーでも麹が並んでいるので買ってみました。200gで300円程度です。
これを瓶に入れてだいたい同量の天然塩を入れて水がひたひたになる程度入れておきます。
これで1〜2週間ほど置いておくと塩麹のできあがり。ジャガイモやトウモロコシにつけて電子レンジでチンすると美味しい温野菜ができます。胡瓜はざっくり切って一緒に揉んでおくと浅漬けになります。
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国旗が縫いつけられたウェアの凄み 
Sunday, August 12, 2012, 10:58 AM
晴 10時 浅草での空間線量は92ベクレル/立法メートル

ロンドンオリンピックも明日で終わりでやれやれです。新聞やテレビの社員はオリンピックネタだけだから夏休みみたいなもの。楽な商売ですね。

オリンピックでは選手のスポーツウェアには日の丸が当然入っています。当たり前なんですが、国旗は勝手に入れると怒られます。国内の公式試合では日の丸をつけられるのは過去に世界選手権に出場したことがある者に限られます。

逆に左肩や胸に日の丸がついている選手は一瞥で国際級であることがわかりますから、プレッシャーにもなりますね。

ヨット(セーリング)競技ではセール(帆)に大きくJPNという国別の標識がつきます。草レースでたまにJPNを付けたセールが出てくると、をっ!ワールドセーラだ!なんとか一矢報いてやるぞとテンションがあがります。まあこてんぱんに負けますけど。

自転車も世界選手権へ出場した選手には胸と肩に日の丸が誇らしく縫いつけられています。さらにメダリストには7色のレインボーカラーを一部に入れることができます。アルカンシェルといいますが、もしアルカンシェルのウェアを着ていれば、水戸黄門の印籠みたいなものでレース中は王様のように振る舞えます。

今ほど日本国内で自転車が人気スポーツではなかった20年以上前、虹色のウェアが流行ったことがありました。たぶん作る側も売る側も着る側も海外のメディアや雑誌でよく目にするからと気軽にレプリカがもてはやされたのでしょう。

イタリアやフランスの観光客が日本で驚いたことは、皇居の周回道路にも、田舎でも自転車の世界チャンピオンやメジャーレースの優勝者がたくさんいる!と驚いたという笑い話があります。

さすがに今では日の丸入りのウェアやメジャーレースのレプリカはそこらで売られていません。国旗入りのウェアはそれだけ特別なものなのです。


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8/11 10時 浅草での空間線量は84Bq/m^3  
Saturday, August 11, 2012, 11:54 PM
晴 10時 浅草での空間線量は84ベクレル/立法メートル

本日はずっと外出しておりました。富岡八幡の夏祭りで永代橋付近ははっぴ姿でにぎやかですし、港区田町にいると花火でドンドンと大音響が聞こえてきます。
にぎやかでいいですね。浴衣姿の若いカップルがそぞろ歩いている姿はちょっと羨ましい。

六城ラヂウムも明日からお盆モードです。
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8/10 10時 浅草での空間線量は80Bq/m^3  
Friday, August 10, 2012, 01:20 PM
晴 10時 浅草での空間線量は80ベクレル/立法メートル

観るつもりはなくても夜中に目が覚めて女子サッカーを観てしまいました。
お盆前に済ませたいことがいろいろありバタバタしております。
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8/9 10時 浅草での空間線量は81Bq/m^3  
Thursday, August 9, 2012, 11:07 AM
晴 10時 浅草での空間線量は81ベクレル/立法メートル

浅草ではテレビの撮影をよくやっています。昨日観たのは剛力彩芽ちゃんでした。
ちょんまげかぶってましたが。

可愛いと言えば卓球の福原愛ちゃんと石川佳純ちゃんですね。
浅草代表はなんといっても浜口京子選手です。アニマル浜口ジムは浅草寺の真裏にあります。5656(ごろごろ)会館の近くです。

浜口京子選手のアテネと北京オリンピックの銅メダルはオリンピック中はウェアと共に台東区役所ロビーに陳列してあります。

しかしトップアスリートってすごいよなあと思います。体格もそうですが、出場するにも資金がたくさんかかるのです。

オリンピックに出場するためには、世界選手権に出場して上位の成績を残さなければなりません。日本国内で勝ち抜いて上位3位あたりが世界選手権の出場権利を得ることができます。そして世界各地で行われる国際大会で勝ち抜かねばなりません。

首尾良くいい成績が残せると、オリンピック委員会から国別選手枠が与えられます。強豪国は人数が多く、成績がギリギリですとたった一人といった具合です。

そうしてオリンピックの強化選手から選考会やレースで派遣される選手が決定されるのです。

この一連のオリンピックに出場するまでの行程はすべて選手持ちなのです。

世界選手権に出場するだけでも数百万円の費用がかかります。ヨットレースなどは一回でるだけでも600万円もかかります。ヨットをコンテナで運ばなければなりませんから。オリンピックを目指すには数千万円という費用問題がついて回ります。

実業団やスポンサーがついている種目ならば費用面での苦労は少ないのでしょうが、大部分のオリンピック種目にはスポンサーはいないでしょう。

何人もの自費で世界選手権や国際大会へ出場し選手枠を獲得したからこそオリンピックという晴れ舞台が用意されているのです。メダル獲得した選手が感謝の意を述べているのは、そのような代表に選ばれずにオリンピック手前で涙を呑んだ選手への感謝なのだと私は思います。


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100円ショップの商品が100円ではなくなっていく 
Wednesday, August 8, 2012, 01:39 PM
晴 10時 浅草での空間線量は81ベクレル/立法メートル

スペインの国債利回りはBloombergで観ることができます。
http://www.bloomberg.co.jp/apps/quote?T=jp09/quote.wm&ticker=GSPG10YR:IND

スペイン10年物国債は6.86%、イタリア国債でも6%前後で変らずです。ちなみにフランスは2%、ドイツは1.5%前後で推移しています。ドイツの2年物国債にいたっては-0.05というマイナス金利にまでなっています。
スペインやイタリアのお金がフランス・ドイツへ逃避している現状が国債金利を眺めることでよくわかります。

今日明日でもデフォルト宣言されてもおかしくない状況


EUが瓦解したあとの世界は誰も想像できません。

スーパーに100円ショップダイソーがあるので、文具や雑貨を買うときには重宝しているのですが、最近思うことはぜんぜんお買い得感がないのです。

たとえば封筒などは一見100円ショップは安そうに思えても、枚数が少なかったりと錯覚で割安感を演出しているだけです。それならば文具専門店の方が単価は安く品揃えもあり、品質でも良質です。電池などもちょっと先の秋葉原で買った方が一流メーカー製を安く買えます。

100円ショップなのに100円ではなく200円や500円といった値札を付けているものが増えてきました。もう100円ショップという業態は終りなんだなと思えます。
円高以上に中国のインフレが激しくて安くはつくれないのです。安い原料と安い人件費で伸びてきた中国雑貨ですが、こんなものでも値上げしなくてはならない状況になったのです。
ユニクロも100円ショップと同じように衰退していくでしょう
圧倒的な価格競争力だけがウリだったのですから。

世界的なスタッグフレーションが徐々に始まっている


スタッグフレーションとは賃金が低下して物価が上がるという状況です。金が回らず物価が上がるという最低な不況です。

副島隆彦先生が5年ほど前に、中国製品もやがて値上がりしていくだろうと指摘されていました。貴金属で資産を守ると言うことも大事だが、商売人は商材を溜め込むことが有利になるだろうと予言されていました。事実100円ショップからはその傾向が如実です。レアメタルを例にするまでもなく

「在庫は悪ではなく宝」という時代が目前なのです。


なぜなら世界は既に混沌とした戦争状態へ移りつつあるからでしょう。

ギリシャでは高級スポーツカー・ポルシェの販売台数が急増しているのです。換金性のあるものに小金をもつ庶民は走っているのです。現金と土地を保有することはリスクが高い時代になったのです。通貨と土地は国家管理下だからです。
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Inspector+(GM管式線量計)同士での精度確認作業 
Tuesday, August 7, 2012, 03:20 PM
弊社は線量計としてアメリカSE社Inspector+を創業当時から用いています。
理由は大型のセンサーを備えているために高感度であることと簡便であるからです。それでも当初は分厚い英文マニュアルと格闘しなくてはなりませんが。

Inspector+の代理購入の依頼があったので1年ぶりに輸入しました。昨年は注文して半年待ちというとんでもない状況でしたが、今回は比較的早く到着しました。

納品前に早速初期設定を兼ねて精度チェックをしてみました。
右の二台が今回購入した機器です。金型が変ったのか少しだけ作りが良くなっています。角に丸みがあり、電池蓋などが気持ちよくはまるようになりました。

今までは安っぽかったから、値段相応になったとみるべきでしょうか。

校正に用いたのは、パワー&スリムベルトのラジウム含有シリコンゴムです。同時に三つ並べてどれだけ誤差があるかを調べてみました。

写真で真ん中と右は新品、左は当社がずっと使っているガイガーカウンターです。
多少のずれがあるかと心配しましたが、三つともほぼ同じ数値を示しています。私の機器も誤差範囲で安心しました。

誤差が大きい場合は校正(調整)に出さなくてはならないかと思っていたのですが、小数点以下でしたら十分です。

また新品二つも合格です、自信を持ってお渡しできます。
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88年前(1924年)に常温核融合は発見されていた 
Tuesday, August 7, 2012, 01:16 PM
晴 10時 浅草での空間線量は84ベクレル/立法メートル

常温核融合は一時話題になりニュースで取り上げられたことがありました。ビーカーの中で太陽と同じ水素からヘリウムが生まれ、それに伴う熱が発生する現象が発見されたからです。しかし追試験を世界中の科学者が行いましたが再現されずに、たんなる測定ミスか他の要因であるという結論で終わってしまいました。

誰もが核融合が簡単な実験室でできるなどとはおとぎ話だと思ったことでしょう。錬金術はオカルトであるに過ぎないのでしょう。

ところが常温核融合(元素転換)の発見は88年前に東京帝国大学・長岡半太郎教授により水銀から金を創り出すことに成功したという発表を行っています。

戦前も現在の日本も希少資源が国内で採れないために手近な素材を禁輸物質へ転換することを目標としていたのです。

原田武夫著「世界通貨戦争後の支配者たち」2011/1小学館では常温核融合の特許が1993年(平成5年)能登谷玲子氏(北大理学博士)により出願、登録(特開平6−317686)
されていることを明らかにしています。

エセ科学という類と信じ込まされてきた常温(低温)核融合とロスチャイルド、モスクワ大学物理学者フルムキン、そして綿々と核融合研究の流れを汲む能登谷玲子氏といった関係は陰謀論としてみなくてもとても興味深いです。著者が原田武夫というところが眉唾になってしまうのですけどもね。なんたって情報源はドイツのシュピーゲル紙であることを常々公言していますから。

参考:国際情勢の分析と予測:日本とロシアの常温核融合研究:北大理学部元助手の能登谷玲子とモスクワ大教授のフルムキン
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シリア情勢とオスプレイ配備はリンクしている 
Monday, August 6, 2012, 01:07 PM
雨 10時 浅草での空間線量は91ベクレル/立法メートル

昨日は更新できませんでしたが、午前中は117、夜間は93ベクレルでした。
減少傾向となりました。

茨城県筑波方面に行っていたのですが、気温33度雲一つ無いカンカン照りで陽射しは体力を奪います。
熱帯夜で睡眠不足が続いていたのも原因でしょう。良質な睡眠こそが体力の源泉であることがよくわかります。

読売新聞(別称:日刊CIA)では日本と中国での戦争の可能性を述べ始めています。尖閣諸島とオスプレイ配備での観測的記事ですがシリアの情勢とも密接に関係していると観なければなりません。

シリア、そしてイランをアメリカに抑えられれば中国は2000年から急増する石油輸入量の44%を占める中東産原油の蛇口を抑えられることになります。

http://www.pecj.or.jp/japanese/minireport/pdf/H21_2011/2011-017.pdf

そのために中国国内の原油採掘とシベリアとカザフスタンからのパイプライン、そして建設中のミャンマールートのパイプラインにより需要を賄っています。

またアンゴラ・スーダン等のアフリカ産油諸国からの輸入も輸入全体の21%も占めています。フィリピンとの領土問題はシーレーン確保のためです。

経済成長持続することは石油支配が絶対条件であることがわかります



副島隆彦先生が指摘しているように、鍵となる国家はカザフスタンとなるでしょう。中国もロシアとは友好関係を維持して行かなくてはなりません。エネルギー取引はカザフスタンでも行われていくでしょう。

そうはさせないぞと国際資本・石油メジャー



将棋で言えばオスプレイは桂馬のようなものでしょうか。現在の主戦場はシリアであり、中国の背後にはロシアという角が控えています。

しかしプーチンは遣り手ですね。欧米金融危機に乗じて、それまでのメドべージェフの親米政策を放棄して覇権を着実に狙っているのですから。

このような場合、日本はロシア・中国・アメリカから独立しているほうが良いです。そのためにも

本来ならオスプレイは日本が保有しなければならない飛行機


だったのでしょう。オスプレイや原発を俎上にあげるなら防衛と憲法改正を堂々と述べろと原爆記念日の今日は思うのです。

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常任理事国ではなくて良かった(欧米対中ロ代理戦争としてのシリア問題) 
Saturday, August 4, 2012, 02:56 PM
晴 11時 浅草での空間線量は117ベクレル/立法メートル

シリア政府が内戦状態に陥り、反政府勢力を掃討していることで国際的な非難が高まっています。国連安保理事会はシリア・アサド政権へ停戦を呼びかけています。

国連安保理事国は人道的な国なんだなあ


なんて思っている人はおめでたいとしか言えません。

国連安保理事会ではシリアへの経済制裁に中国とロシアが反対しています。

中国とロシアはアメリカの本音が十分なほど理解しているからです。それは

(米)シリアを制圧したら次は隣国イランだ!



シリアはイスラエルに隣接していますし、反イスラエル国家です。イスラエルとしてはシリア、イランは長年の宿敵です。そしてアメリカとしては原油埋蔵量世界3位/天然ガス埋蔵量世界2位であるイランを親米国家とすることはドルの価値を維持すること、つまり覇権国家であり続けるために必須であるのです。

子ブッシュがイラクを侵略したようにシリアへの軍事介入を行う可能性は十分高いでしょう。オバマはノーベル平和賞をもらった手前、国内経済も停滞しているために軍事介入には消極的です。

それでもアメリカはシリア、そしてイランを陥さなければなりません。これは地政学で必ずアメリカが覇権を維持するためには抑えなければならない国なのです。なぜか
露骨に米国の覇権を狙う中国を押え込むためには中国へ向かう石油を支配下にしなければならないからです。

太平洋戦争の発端となったABCD包囲網のようなものですね。America/British/China/Doutchが石油の禁輸(embargo:エンバーゴ)を行ったことで日本が石油を求めて軍事行動に移ったようなものです。

イラクへの派兵はアメリカ軍は後援部隊として派兵し、実行はフランス、ドイツに行わせました。しかし今回ヨーロッパは派兵できるような状況でしょうか、もちろんアメリカ単独で軍事行動を取り、中国、ロシアとの衝突をするということも考えられません。

ロシアのプーチン大統領が国家間でやっていることは

(露)ウチの石油・ガスを回すから反シリア制裁の陣営に入れ


と根回ししているのです。シベリアの天然ガスパイプラインを日本へ引くという話が起きては消えるのはシリア、イランを巡る駆け引きのネタとして出てくるのです。

アメリカは中国・ロシアの反対で膠着する安保理事会から離れて、欧米主導でシリアへの経済制裁を行うことを宣言しています。
安保理とははヤクザの親分衆が縄張りと分け前で円卓会議をしているようなものです。

ドスをちらつかせるかわりに、中国は地中海へ駆逐艦とフリゲート(護衛艦)を派遣してロシア、シリア、イランと合同軍事演習を行いました。軍事演習という名称であっても内実は兵器の移管・譲渡・販売であり、軍隊駐留の方便でしかありません。

シリアを発火点に欧米+イスラエルVS露中で一触即発の状況なのです



日本はオリンピックで国民を白痴にしており新聞メディアは何も報道していません。

政府中枢は馬鹿のふりしてタリラリラ〜ンと連日権力争いをしている方がまだましかもしれません。

参考:ロシア政治経済ジャーナル:(欧米vs中ロ代理戦争)シリア問題の行方
(欧米vs中ロ代理戦争)シリア問題の行方(つづき)
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